湊川の戦いに臨むにあたって禅僧をたずね、禅問答をします。いまや最後の時が来て、生きるか死ぬか、その断末魔に臨んでの覚悟を訴えます。勝敗は決まっている負け戦ですが、大義の為には避けられないのもです。禅僧の返事が「両頭共に截斷して、一剣天によって寒じ」、しかし、まだ心中もどかしいものがあり、「落処作麼生(らくしょそもさん)」禅師は「カーッ」これにより、楠木正成は心にかかる雲もなく、勇躍出陣したといわれています。
楠木正成とは?
楠木正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から全域朝時代にかけて活躍した武将で、特に後醍醐天皇への忠誠を貫いたことで知られています。 河内を拠点とした地方豪族で、天皇の呼びかけに応じて、北条氏に抵抗したことにより広く知られています。
楠木正成は、議事家としても非常に優れた才能を発揮し、強大な鎌倉幕府の軍勢を相手に戦いを繰り広げ、特に千早城戦闘では、圧倒的な兵力差を戦略と知略で覆し、敵の大軍を翻弄したことで名声を高めました。
正成の忠誠と献身は、後醍醐天皇による「建武の新政」を支え柱の一つとなり、正成の名は武士道精神の象徴として語り継がれています。鎌倉幕府が崩壊する中で、楠木正成もまた困難な運命に負け、最後は湊川の戦いにおいて壮絶な最終期を迎えます。
湊川の戦い
湊川の戦いは、1336年に楠木正成が命を賭して臨んだ決戦であり、主の誠実と武勇が頂上に達した瞬間でもあります。正成と、北朝方を支援する足利尊氏との間で行われました。
楠木正成は、足利尊氏の圧倒的な軍勢に対して、兵力の差を考慮した上で撤退を進めたとされています。湊川の戦いは、兵力で圧倒されながらも最後まで果敢に戦う正成の姿が見える戦いでした。
正成は弟の楠木正季と共に、足利軍の猛攻撃を受けながらも奮闘し続けましたが、戦闘力の差が乗り越えられないものとなり、最期の時を迎えます。この自害の決断には、彼が武士としての敬意を守り、忠誠を尽くすという物でした。
湊川の戦い前夜
「両頭共に截斷して、一剣天によって寒じ」という表現には、楠木正成がその最期に、心の迷いを断ち切ったという解釈があります。最後にのぞみ、心中には困惑や迷いを抱えていたことを示唆しています。
「両頭共に截斷して」という言葉が意味するのは、一方で正成の内面の迷いや葛藤を断ち切る決意でもあるのです。 武士としての敬意と忠臣としての義務との間で揺れ動く心、最終的に「截斷」、ついでに断ち切り、死を選ぶことで誠実を貫く道を選びます。
「一剣天によって寒じ」というフレーズは、その断固たる決断の象徴です。ここでの「剣」は、純粋武器としての意味に、心の迷いを断ち切る以上の象徴的な存在として捉えられます。の瞬間において、自らの運命を受け入れ、大義を貫いた正成の覚悟は、「天を寒じさせる」ほどの決断力を示すものとされています。
足利尊氏の思い
湊川の戦いにおいて優勢な尊氏軍は、正成殲滅を躊躇している節があります。尊氏から生け捕りにするように指示が出ていたらしいのです。西国に逃げ落ち勢力を盛り返して京都に向かう尊氏、卓越した武将です。尊氏もそれが分かっているから、策を調停に進言しましたが聞き入れられず、仕方なく朝命に従い湊川に赴いたのです。その時に死を覚悟していたのでしょう。
卓越した武士としてお互いに通じるものがあったから、尊氏は正成を死なせたくはなかった、しかし、正成は潔く自刃してしまいました。
最後に
「両頭共に截斷して、一剣天によって寒じ」といわれてもまだ心は定まっていないようで「落処はいかに」と反駁しています。最後に禅僧の「カーッ」で腑に落ち、迷いが吹っ切れ、清々しく戦地に向かえたのです。
茶席で禅語「両頭共に截斷して、一剣天によって寒じ」の掛け軸を鑑賞しながら頂くお茶は格別なものがありそうですね。