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「無能無芸にしてこの道に通ず」は松尾芭蕉の境地についての言葉

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書籍

松尾芭蕉の「無能無芸にしてこの道に通ず」の意味は、「何の才能も能力もなかったので、一つのことに集中することが出来た」と解釈するのは大きな勘違いです。芭蕉は若い頃から俳句というものが好きで好きで好きで好きだったわけです。ですから、芭蕉は謙遜して、それしか自分にはとりえがないと自負していたのでしょう。自負していたことと能力がないかは別問題です。でもそれだけ好きであっても、突き詰めていくと、奥が深いものであるし、高さを求めればどうしようもなく難しいものになります。そういうことがやればやるほどに痛感してしまう。

だから何度も別な道に行こうとしたことがある。人間は弱い。ですから、気落ちしたり、ペースが緩むことはいたしかたないと思えます。『生きて行く術として立身出世を望んだこともあるし、他の学問に進もうと考えたこともある。

しかし芭蕉は別な道に行こうとも考えたけど、どうしても俳句への憧れが消えなかった。だから結局俳句の道一筋に生きることになった、ということなんです。俳句以外の一切のものに夢、憧れを抱くことが出来なかった、ということで、それを言葉にして

「つひに無能無藝にして只此一筋に繫る」

と言っているのです。

『ダメ人間だったから一つのことに専心できた、というような現代的な安っぽいものではない。

人間を推進するのは常に夢と憧れ、志です。それを一つのことに抱き、それを貫いたのだ、という芭蕉の崇高な禅的境涯に基づく一語です。

芭蕉は俳諧の道を歩んでは来たのだが、途中で挫折したり、自らに疑問を持ったりと、紆余曲折を経てきた。それでも、無能無芸なゆえに別の道を見出すこともできず、やはり自分が生涯をかけて歩む道はこの道だけだったのだ。

自分には才能というものは全くない。ただひたすらこの俳句の道を一筋に愚直に歩いてきただけなのだ。(もちろん謙遜ですが)才能などは関係ない、ただただその道を極めようと精進し、励むことが大事だ、ということです。

松尾芭蕉の『笈の小文』の「造化にしたがひて造化にかへれ」の現代語訳

ここに百の骨と九つの穴を持つ人間の体があり、その体の中に「もの」がある。仮にそれを風羅坊という。風羅と名付けたものは、本当にその男が風によって破れやすいようなはかないものであることを言うのであろうか。彼は、狂句を好んですでに久しく、ついに生涯をかけた仕事になっている。ある時は嫌になって放り出そうと思い、ある時は進んで励み人に勝つようなことを誇ろうと考え、そのよしあしの思いが胸の中で葛藤して、このために心身の落ち着かないこともあった。

また、一度は世間並みの出世をしようと願ったけれども、狂句のために妨げられ、あるいは一時的に仏教を学んで、自らの愚を悟るようなことを望んだけれども、やはり狂句のために志を破られ、とうとう無能無芸でただこの一筋に繋がることになった。

西行の和歌においてもの、宗祗の連歌においてもの、雪舟の絵においてもの、利休の茶においてもの、それぞれの道は別々だが、これらの人々の根底を貫いているものは同一である。その上、俳諧においてのものは、天地自然に従って四季の移り変わりを友とするものである。目に見えるところ、花でないというものはない。また心と思う所、月ではないというものはない。もし、見えるものを花として見ないならば、野蛮人と同じである。心に思う所が花でないならば、鳥獣と同類である。だから、野蛮人の境涯を抜け出でて、鳥獣の境遇から離れて、天地自然に従い、天地自然に帰一せよというのである。

陰暦の10月の初め、空は時雨の降りそうな、はっきりしない有様、この身も風に散る葉のように行く末が定まらない気持がして詠んだ歌、

旅のお方とでも人から呼ばれるようになりたいものだ。折からの初時雨の中を旅立って行って。また山茶花の咲く宿ゝに泊まりを重ねて。

岩城の住で長太郎と言う者(由之)が其角亭で送別句会(旅立ち前の送別の宴)を催した。

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