調べてみると、我が家の宗派は浄土真宗でした。主に先祖供養にしか機能していません。誠に不信心ながら、浄土真宗については親鸞さんくらいしか知らないのです。昨日の隣のお婆ちゃんの葬式に際し、少し調べてみる事にします。
浄土真宗は、日本の仏教宗派の中でも独特な位置を占め、他力本願の宗教と言われて、対する自力本願の宗教は日蓮宗らしいです。浄土真宗の起源と発展を親鸞聖人(1173-1263年)の教えと活動を通してみていきたいと思います。
浄土真宗の成立
浄土真宗は、鎌倉時代に親鸞によって創始されました。親鸞はもともと天台宗の僧侶でしたが、比叡山を下りられ、聖徳太子の創建と伝えられる京都洛中の六角堂(頂法寺)を訪れ、100日間籠もられます。参籠を続けて95日目の夜明け、親鸞聖人の夢の中に、聖徳太子が観音菩薩の姿になって現れ、お告げを授けられます。
それは、厳しい修行をおこなわなくても、煩悩をもった人間がありのままの姿で救われる、阿弥陀仏の絶対の救済があることを示した夢だったと言われています。
この夢告を受けた親鸞聖人は、当時吉水に庵を結び「専修念仏」の教えを説いていた法然上人のもとを訪ねます。法然(1133-1212年)に師事し、専修念仏を強調する浄土教の流れを汲むことになります。
専修念仏(せんじゅねんぶつ)とは
専修念仏(せんじゅねんぶつ)は、日本の浄土教及び浄土真宗において重要な実践であり、特に法然と親鸞によって強調されました。この教えは、阿弥陀仏の名を唱えることによって救いを得るという修行方法です。
専修念仏の基本的な意味
専修念仏は、「専門的に念仏を修する」という意味であり、他の仏道の修行や雑務から離れ、ただ一つの行として阿弥陀仏の名号「南無阿弥陀仏」を称えることに専念する実践を指します。この実践により、信者は阿弥陀仏の願いに基づく救済を信じ、最終的に極楽浄土への往生を願うものです。簡単にいえば南無阿弥陀仏を一心に唱えれば阿弥陀如来が来てくれて願いを叶えてくれるということだと思います。
歴史的背景と発展
専修念仏の考え方は、日本における平安時代末期から鎌倉時代にかけて、法然によって広められました。法然は多くの仏教宗派の教えを学んだ後、浄土教のシンプルな教えと普遍性に魅力を感じ、特に念仏の修行を一人一人の救いの中心に置きました。彼の教えは、専修念仏を中心として、全ての人々が救済されることができるという「選択本願」に基づいています。
親鸞による解釈
親鸞は法然の弟子として、専修念仏の教えを継承しつつ、さらに深化させました。親鸞によると、専修念仏は単なる口に出して唱える行為ではなく、深い信仰心から湧き出るものであるとされます。また、親鸞は念仏を称えることが「他力本願」によるものとして、すなわち阿弥陀仏の力によってすべてが救われると説き、自力での修行や悟りを目指すことを否定しました。
法然の専修念仏とは、阿弥陀仏の名を唱えることによって救われるという教えです。親鸞はこの教えをさらに発展させ、全ての人が阿弥陀仏による救済を受けることができると説きました。彼のこの思想は「他力本願」として知られ、自力での修行や悟りを否定し、阿弥陀仏の無限の慈悲に依存することを説いたのです。
教行信証
親鸞は自らの教えを「教行信証」という形で体系化しました。これは「教え」と「行い」と「信じる心」と「証し」という四つの要素から成り立っています。親鸞にとって「教え」とは阿弥陀仏の救済のメッセージ、「行い」とはその教えに従って念仏を称えること、「信じる心」とは阿弥陀仏の誓いを信じる心、「証し」とはその信仰を実生活で示すことを意味していました。
構成と内容
教行信証は、その名が示す通り、四つの部分から構成されています:
1. 教(きょう):釈尊の教えの真意を解説し、特に阿弥陀仏が説いた浄土三部経(『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』)の教えを中心に扱います。
2. 行(ぎょう):真宗の行者がどのように行を進めるべきか、すなわち念仏の実践方法について説明します。
3. 信(しん):浄土への信心の重要性とその内容を明らかにし、信心の確立が如何にして人を救済するかを説きます。
4. 証(しょう):阿弥陀仏の願いがいかに確かなものかを証明し、信心得た者が必ず浄土へ往生するという教えを強調します。
背景と重要性
親鸞は、このテキストを通じて自身の信仰と経験を基に、他の仏教宗派と異なる独自の解釈を展開しました。特に他力本願の思想、つまり自分の力での悟りや功徳を求めるのではなく、阿弥陀仏の願力に全てを委ねる信仰を強調しています。これは、多くの人々にとって救済がよりアクセスしやすくなることを意味しており、その普遍性から浄土真宗は広く受け入れられることとなりました。
影響
教行信証は、浄土真宗の教義を確立する上で中心的な役割を果たし、後の多くの浄土真宗の僧侶や信者にとって信仰生活の指南書となっています。また、日本の宗教文化においても、その教えが社会に与えた影響は計り知れません。親鸞の教えが広まることで、信仰における個人の内面的な変革と社会的な変革が促されたのです。
『歎異抄』
『歎異抄』は、浄土真宗の教えを集大成した親鸞聖人の主要なテキストの一つで、彼の弟子である唯円によって編纂されました。このテキストは、親鸞の言行録を基に、その教えや思想が綴られています。『歎異抄』は、「歎きと驚きの抄」とも訳され、親鸞聖人自身が経験した信仰の奥深さや、浄土教の教えに対する彼の感動や驚きを表しています。
内容と特徴
『歎異抄』は、全二十八条から成り、親鸞の教えや人生観、宗教観が短い章で語られています。この書は、親鸞自身の信仰心の変遷や、彼がどのようにして他力本願の念仏を信じるに至ったかが記されています。また、親鸞の教えにおける自己の無力さと、阿弥陀仏の慈悲に全面的に依存することの重要性が強調されています。
慈悲と共感: 親鸞の思想において、阿弥陀仏の慈悲はすべての生きとし生けるものに平等に与えられるものであり、その慈悲に対する感謝と敬愛が『歎異抄』の中で表現されています。
影響と価値
『歎異抄』は、浄土真宗の教えを理解する上で非常に重要なテキストであり、親鸞聖人の思想や生涯を深く知る手がかりを提供します。また、このテキストは、信仰心の深さや人間の弱さを認めつつも、それを超える阿弥陀仏の慈悲を信じるというメッセージを通じて、多くの人々に影響を与え続けています。
しかしながら、真に親鸞を理解するなら、まず『教行信証』から学ぶべきであるとの意見があります。親鸞が心血を注いで書き上げたものだからだそうです。安易に『歎異抄』だけで判断すると間違うそうです。
発展の背景
親鸞の教えが広まった背景には、時代状況が大きく影響しています。鎌倉時代は武士の台頭とともに社会が不安定になり、多くの人々が生活の困難に直面していました。そうした中で、親鸞の提唱する救済のメッセージは、特に庶民や社会的弱者に強く訴えかけました。
また、親鸞自身が結婚し子供を持つなど在家の姿をとったことで、出家しなくても救われるという新たな仏教の形が提案され、これが多くの人々に受け入れられたのです。
宗派の分裂と展開
親鸞の死後、彼の教えは息子である善導(真宗聖人)をはじめとする家族によって引き継がれましたが、その解釈や実践において多様な意見が存在しました。
特に、彼の子孫である蓮如(1415-1499年)の時代には、浄土真宗の教団が大きく発展しました。蓮如は多くの寺院を建立し、広範囲にわたる布教活動を行いました。また、一向一揆などの社会的・政治的な動きとも連動し、庶民からの支持を集めることに成功しました。
彼の孫の代である顕如のもとで大谷派と本願寺派に分かれることになります。この分裂は主に教義の解釈や寺院運営の方法に関する違いから生じました。
現代への影響
浄土真宗は、その後も日本の仏教宗派として重要な役割を担い続けています。親鸞の教えは、現代においても多くの人々にとって精神的な支えとなっており、全国に広がる寺院や学校などを通じて、その教えが伝えられています。また、社会福祉活動などの社会貢献も行っており、教義だけでなく、具体的な行動を通じて社会に影響を与えています。
まとめ
浄土真宗の成り立ちと発展は、親鸞の革新的な教えと、それが当時の社会状況に適合したことによるものです。他力本願という教えは、自己の力ではなく、阿弥陀仏の救済に依存することで、広範囲の人々に希望を与えました。そのシンプルかつ深いメッセージは、時代を超えて現代にも引き継がれ、多くの信者にとっての心の支えとなっています。