「照顧脚下」と「脚下照顧」は同じ意味で、どちらも「きゃっかしょうこ」と読みます。「脚下照顧」は、禅宗の寺院などでよく見かける四字熟語で、「我が身を振り返れ」、「自らの行いを反省し、顧みなさい」、「他に対して理屈を言う前に自分 の足もとをよく見て、自己を反省しなさい」という意味で解釈されています。しかし、由来から考えると、もっと深い宗教的な意味があるのです。
「足元」、「照らし顧みる」
「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」は、禅語で「自分の足元を見よ」という意味です。禅宗のお寺の入口などに掲げられる言葉で、次のような意味があります。
- 他人に理屈や文句を言う前に、自分自身を振り返ってみなさい
- 人生や経営においては、自分自身の現在の立ち位置を確認しなさい
- 初志や創業理念などの座標軸に対してずれた行動をしていないだろうか、自分は道を踏み外していないだろうか、と自分自身のあり方を見つめ直すためにも、足元を見ることは大切です
「脚下」は足元のことで、「照顧」は照らし顧みるとなります。禅では過去・現在・未来は一本の線ではなく、「現在」という点の連続であると考えられており、過去に執着せず、未来に期待や不安を持たず、今できることを全力で行うことが教えです。「いつするの?今ですよ」と云うことです。
「履き物をきちんとそろえましょう」という標語的に使われることもあります。永平寺の開祖である道元禅師は、日々の修行の中に「履物を揃える」という行為を組み込んでいました。
履物を揃えることは「その家の人の心が整えられている」ということにつながり、「賊は慎家の門に入らず」で、盗人でも玄関の履き物がよくそろえているある家には入らないといいます。
深い宗教的意味
三光国師の語録にある問答では
僧問う「禅の真髄とは如何なるものでしょうか」(如何なるか是れ祖師西来意)師曰く「照顧却下」祖師とは達磨大師のことです。
この時の「照顧却下」は「今自分の立っている足元をよく見なさい。達磨大師がインドから中国に渡来して広めようとされた真の意味、それが真髄ですよ」と云う意味になるかと思います。
分かったような、分からないような気分ですが、禅の問答ですので、悟った人にはわかるようです。「照顧却下」は日常生活で留意すべきことで、日常です。そんな日常の中に真髄があるのを見出しなさいと、悟りに導く方便と言えるでしょう。
私たちは心理とか真髄は遠いところ、高いところにあるかのように求めていますが、実は身近にみちみちているのです。まさに「照顧却下」なのです。それを悟れ悟れと言っているような気がします。