「平常心是道」とは、無門関に出てくる、禅の教えに基づく言葉で、非常に深い意味を持つフレーズです。これは、普段の心、つまり何も変わり映えのない、日常的な心がまさに「道」であると教えるものです。この教えは、特別な精神性や超自然的な体験を追い求めるのではなく、日々の生活の中で最も普通の状態の心が最も価値があるという考え方を示しています。
禅とは何か?
禅は仏教の一派で、特に直接的な体験と自己の洞察を重視します。禅では、瞑想や座禅を通じて心を静め、日常生活の中での悟りを目指します。この宗教的実践は、中国の禅宗が起源であり、日本に伝わって発展したものです。
平常心是道の出典
無門関第十九則にある、趙州禅師と師である南泉禅師の問答から来ているもので、その内容は、趙州禅師が「「如何なるか是れ道」と南泉禅師に問います。
この道とは、インドでは菩提という表現であったものが、中国で道と意訳されたと考えられています。すなわち、「悟りの妙智」とか「禅の真髄」といった意味にとるものです。
この問いに、南泉禅師は「平常心是道」と答えられたのです。平常の心、平常の一挙一動、ことごとくが「道」にかなっておらねばならない、「道」と離れないようにしなければならないと言う意味にとられたいます。
平常心是道の意味
「平常心是道」の「平常心」とは、平穏にして常住、少しも外物に動かされることのない、落ち着いた心と言う意味で、とらわれない常に澄み切った心と解釈できますが、もっと広く、私たちが日常的に経験している心理状態であり、何か特別なことをしている時ではなく、普通に生活している時の心を「道」と解釈した方が良いといいます。この心は作られたり、強いられたりするものではなく、自然体でいることが重要です。
「是道」は、「これが道である」という意味です。ここでいう「道」とは、仏教で言うところの「真理」や「悟りへの道」を意味します。したがって、「平常心是道」は、あるがままの心こそが真理を見つけ、なにか一つ超えたあるがままに至る道であると教えています。
なぜ平常心が重要なのか?
禅では、日常生活のシンプルさやありのままを受け入れることが重視されます。人はしばしば、何か特別な技術や知識、あるいは精神的な高揚を求めがちですが、禅はそれらを追い求めることで実は本来の自己から遠ざかってしまうと考えます。平常心は、そうした追求から離れ、現在の瞬間に真実に生きることを促します。
この教えによれば、人間は既に完全であり、求める真理や悟りはすでに自分の中に存在します。したがって、無理に変わろうとするのではなく、ありのままの自分自身を受け入れることが、真の悟りに繋がるとされています。
日常生活での平常心の実践
平常心を実践するには、毎日の活動—食事をすること、歩くこと、話をすることなど—において、心をその場に完全に留めることが求められます。これは「行住坐臥」(行く、住む、座る、臥すのすべての活動)を意識的に生きることを意味し、すべての動作において心を逸らさないようにすることです。
南泉禅師は、「道はわかったといってもいかん、わからんといってもいかん。わかったといえばもう分別におちる。わからんのいえばそれは無自覚というものだ。わかるわからんの沙汰もなく、ただスラスラとなんの不安もなんの疑念もなく行われていくところ、そこが真の道である。それはカラッと晴れわたった大空のようなもの、ああのこうのと是非分別を入れる余地は、さらさらないのだ」と、趙州禅師の苦しい求道の叫びに説示しています。
結論
「平常心是道」は、禅の教えの核心をなすものであり、日常生活の中に深い真理が存在することを示しています。特別な体験や変化を求めるのではなく、毎日をありのままに生きることが、実は最も深い精神性につながるというメッセージです。私たちは道の中で寝たり起きたりしているわけですから、いまさらあらためて「平常心」ということが、すでにそむいているというべきですね。